昭和46年07月26日 朝の御理解
御理解 第40節
「重いものを負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」
大変難しい御理解だと思いますね。今日はこの四十節を次の四十一節から、ここを引用して聞いて頂こうと思います。四十一節に信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。信心が只話を聞いて行くと言う事だけ、只参っておるというだけ、拝んでおると云うだけ。成程それなら楽ですところが私共は、生身を持っておりますから、痛い痒いがある。苦しいことがある。その痛い痒いから苦しい心の状態の上にまで、おかげを受けなければならぬ。
と云うことになって来る時に、信心は楽ではないと云うことになる。ここでは楽じゃと、重いものを担いでおる訳でもなからなければ、それをおんぶしておる訳でもない。楽な。ところが自分の心に負うておる、肉体に負うておる。ですから叩かれればやっぱ、痛いのであり、腹の立つことを聞きゃ、やはり腹が立つのである。だから楽じゃと云うところまで、一つおかげを頂くことのために、楽と云う事は楽しいということ。楽と云うことは、安楽と云う意味じゃない、ここではね。
楽と云うのはここでは楽しいと頂かなければならんだろう。だからどういう修行の真中かいなと云う時であっても、その修行が有難か、または楽しかと言うのはね。これは信心は楽なんです。楽しいんだ。だからそこまで極めて行くことの為にね、次の四十一節が要る訳なんです。信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい。信心を楽しいものにして行かなければならない。お互いどうでしょうか。信心が重荷になっている様な事はないでしょうか。
何時もかつも何か知らん、信心の教えと云うものが、手かせ足かせになって、苦しい思いをしてる事はないだろうか。教えと云うものは、決してそういう窮屈なものではない。そういう難しいことを教祖様は教えておられない。それに手かせ足かせにして、教えの中に縛られてしまうという様な窮屈な信心をしておる人がある。そんなもんじゃない。信心は楽しいものなのだ。
そこで、楽しいと云う程しの信心が出来ることの為に、しかもそれはね有難い、いうなら撫でたりさすったりされる様なおかげを頂いておるから、楽しいと言うのじゃなくて、反対に叩かれても突かれてもです、楽しいと云うのが信心なんです。御神意が分かる。御神愛を感じることが出来る。そこに成程痛いけれども有難いという、信心がもう有難いものになってくる。楽しいものになって来る。そこにはね信心は難しいと言うものではない。成程家業を勤め勤めするが良い。
こういう所にはここのところを頂き損ないますとね、何かいわば家業中心でと言った様に聞こえますが、決してそうじゃないです。どこまでもやはり信心が中心なんです。信心で家業を勤め勤めするが良いと言うのは、それを金光教の家業の行であり、それが家業を勤め勤めするが良いと言うのはそういう事。もう忙しか時は、もうお参りせんでん、暇になってから参る。成程それは楽。それはただしかし楽と言うだけ。ここでいう楽は、信心は楽しいものと云う事なのです。
でなかったら四十一節に繋がらない。云うならば真の信心に繋がらない。信心する人の真の信心なき事と仰るが、所謂只信心だけじゃない。金光様の御信心はどこまでも真の信心に繋がって、そして真のおかげを受けられると言う事なんです。私は昨日奉修委員の方達の御祈念を、お取次させて頂いて後でお話した事なんですけれども、丁度奉修員に参加しておられる熊谷さん、それから久富くにかさんそすと佐田恵美子さん、三人の方が丁度その御祈念前に、神様に頂いておられた事を例にしてお話をさせて頂いた。
熊谷さんがもう七十何歳でしょうかね、七十三か四になられるでしょうか。それこそ朝の御祈念に参られ、昼の御祈念に参られ、それこそ時間違わずそれこそ一生懸命の思いで、そして又夜の御祈念に参って見える。お月次祭の時なんかは、それにもう一遍お供え物を買いに行って、お供え物を持って見えるから四回お参りされる。まあ云うなら信心にかかっちゃるごとある。それでいて、やっぱああいう大きなお家の采を振って、ちゃんと家は家で立てて行っておられる。
ほりゃもう、七十幾つにもなって、しかも三里もあるところば、日に三回も四回もお参りして、ちょっともう大変なことである。本人は一つも大変なことと思うちゃない。それが楽しゅうして楽しゅうしてこたえん。信心もここまで楽しいものになってこなけりゃいけませんですね。いわゆる、日に三里もある所を、三回も四回も参って一つも重荷にも思ってござらん、重いものもひっ担うちゃござらん。信心は楽じゃ、こげな楽しい、こんなに有難い事はないと云うておられる。
それは絶えずもう七十幾つにもなるから、若いもんのようなと言う様な気持ちはない。何時も心が若い者のごとある。しかもその教えを追求されることは、、例えば御理解を頂かれて、あれを全部書いて帰られるのですからね、朝は御理解をテープで。ですからおかげの泉なんかの原稿が来ると、一ぺん読んで貰うです、熊谷さんに。そうするとこりゃ違うとりゃしませんか、ここはこうじゃないですかち言うてから、云われる。自分が書いとられるとがほんなこつと云う位ですよ。
私は本当に、信心は何かそこに、こればお願いせんならんから、これば頼まにゃんからと云うて参って来るのは、決して楽じゃないと思うですね。お互いがそこから入らせて頂いて、信心の何たるかを段々分からせて貰うて、楽しいのもになって行くのではありますけれども。だから次の四十一節です。成程、毎朝毎朝、御理解を頂いておる。夜に参って来りゃ夜の御理解も頂いておられる、これは熊谷さんの場合。
それでも尚且つ分からんところは、いろんな問題に直面されると、そこをああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、自分で一生懸命練られる。そこから翻然としたものに触れて、いよいよ信心が楽しいものになって行かれる。話を聞くだけじゃない。只書いておられると云うだけじゃない。それを身をもって行じて行く、行じて行きよると分からん事が必ず出来て来る。そこから練り出すところの働きと。いわゆる練り出させて貰うところの楽しみも、そこから頂けて来る訳である。
熊谷さん、昨日、朝の御祈念に参られる、起きられるちょっと前に、お夢を頂かれた。そのお夢がね、お風呂に入っておられる。そしたら若先生が入って見えられてから、若先生が熊谷さん、背中を流して上げましょうと云うてから、一生懸命背中を流して下さった。あぁ若先生勿体なか、先生にそげんして貰うたら勿体なかと云いながら、背中を流して頂いとるお夢であったとこう云うのである。それで私は申しました。
熊谷さんいっちょ親先生から流して貰う様なおかげを頂かんならんですねと言うて、先生どういう意味でしょうかち。それはね信心とはね、神様に大事にされると云うことなんです。信心させて頂いて、神様に大事にして頂くと言う事なんです。それが金光教のおかげなんです。もうそれこそ神様が下にも置かん様に大事にして下さる。いわゆる信心が楽しいもの。お金が無いと思いよると、ちゃんとお神様は聞いておったかの様にお繰合わせ下さる。あれが無いこれが無いと不自由の思いをすることが無い。
しかもそれが間髪を入れず、お繰合わせの中に、素晴らしいタイミングの中におかげを頂くから、本当に神様ちゃ勿体ないお方じゃ、有難いお方じゃと云うことになる。だから沢山例えば、お金ならお金の場合でも、蓄えがなからなければ安心と言う事ではない。本当に極端に云うと、無一物の中にあっても無一物であっても、例えば必要な時には、着物が必要な時には着物、食べ物が必要な時には食べ物。お金が必要なときにはお金と云う様にです、頂けれる道を体得して行かれよる訳です。
だから愈々有難い勿体ない。その時に私はまたのお知らせにね茄子を頂いた。茄子のいががこうあって茄子がこうあるでしょう。そこのいがと茄子の所の間にほんのちょこっとばっかりであるけど白い所が出ておるでしょうが、そこん所を頂く訳です。是は日本の三大仇討と云う忠臣蔵がそれです。それから荒木又右衛門が伊賀越えで、伊賀越え道中と申しますね。三十八人斬りをするという様な仇討がありますね。
そすともう一つは、富士の裾野で曾我兄弟が、親の仇を討つと言う。この三つが日本の三大仇討と云われておる。お夢なんかでもお夢を見るとね、一富士二鷹三茄子と云うて、この三つのお夢が一番よか夢と云われるほど。一富士と云うのは、曾我兄弟の仇討。いわゆる思いを遂げられると言う事なんです。日頃の念願が叶うと言う事。だから富士山のお夢なんかは、大変良い夢だと云われる。吉兆と言う訳ですね。二鷹是は忠臣蔵の、所謂浅野内匠頭の紋所が違い鷹の羽ですね、鷹の羽の紋所なんです。
だから鷹のお知らせは、そんなによい夢だと言われておる。茄子のお知らせはどういう事かと云うと、伊賀を越えてなると云う意味らしいですね。伊賀を、いがいがを越えて、そして成就する。それまでにはあの仇討の場合でも、それこそ、苦心惨嘆があっております。その伊賀を越えてなると云うことは、成就すると云うこと。それでもね、中にちょっと白いところが出て来る。茄子のいろの紫というのは安心と云われますね是は。それにいがそして不安そして安心と。
これもやはり昨日、久富くにかさんが頂いておられる。御祈念をなさっておられたらローソクがやがて燃え尽き様としておる。芯がそれでも赤々と燃えておるというお知らせであった。有難いなぁ久富さん、もうおかげは間近いばいち言うたことでした。皆さんもご承知の通り、久富さん達が、夫婦だけじゃない、子供達まで一緒に、一生懸命の信心をさせて貰う。僅かばかりのお百姓さん。他には何にも無い。それでいて神様への御用ちゃ本当にそれで大丈夫かと云う位。
この頃からも、余り難儀が続くものですから、親戚の方達が集まって、弟さんから云えば兄さんであり、兄さんから云えば弟である。とても勇どんが、ああいう金光様に呆けちから、しかも日にこがしこもお供えしよるげなが、貧乏する筈たいち、云われたとこう言うのである。いわゆるローソクじゃないけれども、自分の身を削り心を削り、自分の身を縮めてでも周囲を明るうしようと、一生懸命努めておられる。いわゆる今いがを越えようとなさっておられる。そのローソクがもう燃え尽きようとしておる。
もう後は私が申しました。久富さんもう次にはランプ位のおかげを頂くばい。ランプのおかげを頂いたら、次には電気のおかげ頂くよ。百畳敷か例えばボタンいっちょで明るうなる様なおかげになるよと。通るところを通らにゃおかげにならん。学生にとってみれば、勉強は生命である。だからと云うて、その命だからと云うて、ただ勉強だけで、点取り虫の様な生き方をしよると、人間の幸福と云うものにつながらない。試験は最高、いうなら成績優秀で卒業出来るかも知れん。
だから良いところに就職が出来るかも知れん。けれどもそれが出来たからと云うて、人間の幸福と云うものとは関係はない。一番びりで上がっても幸福になれる道があるのだ。頭がよかっても悪かっても問題は学問を身につけると言う事は、幸福になりたいばっかりに一生懸命に学問しよるとじゃん、学校にも通いよるとじゃもん。そんならその根本になるところの心。根本になるところの信心をおろそかにして、人間の幸福につながることはない。如何にもそこに学問と信心とが対立する様にあるけれども。
そこんところを乗り越えて行きよる内に、成程信心のおかげだなと云うです、対立のない両方が両立する。両方ともおかげである。二つであって一つと云うところのおかげが体験出来る。これは学生だけの事ではない。ほんなら今の久富さんの例をとると、僅かばかりの百姓させて頂きながら、しかも朝参り夜参り。最近は昼のあの修行に参って見える。近所の人達は畑に出ておる。今は畑の、田の草取りが一生懸命ありよる。
そこをいわば、背広どん着てから、はぁまたあの人どんな、金光様に参りよってばいのと、言ゃぁ馬鹿のごとある。それこそ変人に見えるけれども、いや只こうすることが本当だと思うておるから、直ぐい道を、辿られておられる訳なんです。それは親戚の誰彼が、何と云うてもです。成程借金もある、利上げも出来ん。けどもその苦しい事は、後から考えると、束の間のものなんです。いわゆるいがと茄子の間に、ちょっと白いところがある様ものなんです、後々で分かったら。
後のおかげはもう、一生一代じゃない。永劫、あの世にまで持って行けれるものが頂くとじゃから。五年十年位のことはほんの束の間なんだ。越えるところを越えよる。私はね、金光様の御信心ちゃ、ここんところを楽しゅう行けれる、有難う行けれる信心を体得しなければ、合楽の信心は分からんと思う。そりゃ忙しいことは神様が知っちゃるけんと云うぐらいな、それは成程、おかげは頂いても徳にはならん、そんな事じゃ。
いわゆる信心が楽しいものにならなければ、信心はそういう中にあっても信心が楽なものにならなければならないと云うことになる。信心とは結局は神様に大事にされる人間氏子になることなんだ。どこをもって神様が大事にしなさるか。結局その人の心の状態だ。その素晴らしい心の状態で神様に、例えば、熊谷さんじゃないけれども、お広前通いが楽しゅうてたまらん言う信心なんである。けれども熊谷さん、まだ神様から大事にされとるごとあるばってん、若先生から大事にされとる位のことじゃ。
若先生をこりゃ神様と例えて下さったんでしょう。だから親先生から大事にされる程しのおかげを、これから願いとしなさらなきゃならんなぁと云うてお話をした事です。ええですか。信心は、結論すると神様から大事にされると云うことを願うことなんです、金光様の御信心は。しかもあの世この世を通して大事にされると言うのである。そこんところには、通るところを通らなければいけないち言う。信心は重いものを負うておる訳でもなければ、只、おんぶしておる訳ではない。
ただ家業を勤め勤めするがよい。信心は楽なものじゃがと仰る。その楽なものと云うことを、信心を楽しいものとこう頂かせて貰うて、そして四十一節である。話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出させて貰うと云うところ。そこにいよいよ限りない信心の、云うなら真味というかね、味わいが頂けて来るのであります。昨日の特別奉修員の御祈念の前に、久留米の佐田さんが、豊桂と字で頂かれた。豊桂という事は、豊かな柱と書いてあった。ほう豊か桂は月桂冠の桂ですね。
はしら家の中でも愈々豊にならせて頂く。その中心にならなければならん。どんな難儀な中であっても、お母さんがおかげだと言うたら皆が安心する。昨日ある方が難儀な問題でお届けがあった。そしたらね0零ですかね。一の所に0が一つ付いとる。それが拾ですね1と0一つ。それにもう一つ0を書けと。次には拾から百になるぞと神様が仰った。信心をしない人でも大変真面目な、立派な清い生き方をしておる人がありますね。その人は一生清貧に甘んじた生活と云う様な事をよく申しましょう。
あの人は立派な人。心も清い修養も積んじゃる。けれどもそういう人に限って、清貧に甘んじなければならない。いわゆる正直者が馬鹿を見ると云うことになる。金光様の御信心はそうじゃない。信心というのが一であれば、五であれば、七であれば、これに0が付いていくたんべんに、一なら百になる、五ならば五百になっていく。これにもう一つ零が付いたら五千になっていく。信心の素晴らしい事はそれなんですよ。信心に依って私共は清まる。信心に依って豊になる。
大きなおかげを頂くなら、この零になる事の機会を、いつも願っとかなきゃいけんです。その方の場合はある大変難しい人間関係の事であった。さぁここでいっちょ死んだ気で辛抱なさいと私が申しましただから。その事だけでもよいから一つ死んだ気で受けなさい。死んだ気と云うことは零と云うこと。無いと言う事死んだ者が痛いとも言わん、痒いとも云わんじゃないですか。あげんしてくれこげんしてくれとも云わんじゃないですか。だからそのことだけで一つ本気で死んだ気になってご覧。
今あんたが十のおかげしか頂いとらんけれども、そこんところの修行が出来たら、次には百のおかげになるよと、私が申しましたら、その事は有難いと言うて、受けて帰られた。神様はこんなにして、大きなおかげを下さろうとする働きがありよると云う事になってきた。難儀なことじゃない。困った事じゃない。十よりも百のおかげをやりたいばかりに、そういう神様が演出をして下さって、難儀の様にみえるけれども、悲しい事の様にに見えるけれども、決して腹の立つ問題でも悲しい問題でもないのだ。
さぁそこん所を受けるためには、自分を一つ空しゅうせろと言うことである。死んだ気になれと言うこと。そすと十であったならば百、百であったならば、千のおかげに飛躍して行くおかげが。私はそれを頂いてから、ほんにそうだそうだと、自分でも思いました。だから合楽で皆さんがですね、その都度都度に何かが苦しい事、悲しい事があろ時にです。段々大きゅうなって来たのはね、私がそういう受け方をして来たからだと思うのです、自分で持思います。
だからそこんところで、何時までもぐるぐる回りしとったら、何時まっでん十は十です。そういう様な事もです、いわば家業を勤め勤め、そういう空しゅうなる稽古をして行けと言う事なんですよ。ただ自分の仕事が大事じゃけん、仕事だけ頑張っときゃよか。学者も、勉強だけ、本にかじるつくごつして、ただ、点さえ取ればよかち言うごたる生き方じゃいけんち言う事なんです。
分かるでしょう。勉強の時間でも空しゅうしていかにゃ。自分が病気どんしとると思うたらどうする。勉強しようと思うても出来んじゃないか。お参りしようと思うても出来んぞ。今日はあの仕事がある金と思うてもさぁ熱発下、腹が痛いち言うなら出来んじゃないか。だからそういう時には、空しゅうなる稽古をして行く。自分と言うものを零にして行く稽古。そこからぞろとこの○が、いっちょずつ増えて行く。これが信心のない人の、いわば、清貧に甘んずると言う人ですね。
その人達は、いつもがずうっと零じゃから、一生零で終わってしまう訳なんです。信心と修養の違いは、そげん違うです。信心と言うここに一の信心が出来れば、五の信心が出来れば、もうこれが〇になって行くこれがもう、楽しゅうなってくる訳なんだ。預金通帳が、どんどん増えて行く。帳尻を見て、楽しい様なもんですは。今日は皆さん今日は、信心は楽じゃという事を、信心は楽しいものにしかも家業を勤め勤めと言う事は、信心になっての家業でなからなきゃならないと言う事を聞いて頂いて。
そしてほんなら話を聞くだけじゃ出来ん、只参ったり拝んだりするだけじゃ出来ん。頂いたお話を、それを本気で練らなければいけない。真の信心に向かって進む。それにはどうしても一遍、いがいがする様な所を、伊賀を越えなければ、この茄子のおかげにはならない。ほんなら、いがと安心との合間にはね、はぁこれで終えたっじゃろうかと思うようにです。ちょっと白いところもあると言うところが、ここが辛抱のしどころである。そこで挫折する人がある。
そういう事がです和賀心から、日頃練り出す所の稽古をさせて頂いとらんとです、練り出すよりか、心配の方へ打ち込んでしまう。この方の信心は話を聞いて助かる。けれども話を聞くだけじゃない、ここでは聞くだけが能じゃない。だから話を聞いて分からせて頂いて、分かったことを行じておかげになるのです。勿論今日私がお話したのは、本当に神様から大事にされると云う意味に於て、云うならば、お徳を受けると言うことの為の信心を、今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。